思考と感覚と戯れる

仕事という環境から生み出された、思考や感覚を表現したい。

渦の中

超えられない壁はある。

制御するために誓約を結んだ。

それは守らなければならないのだ。

 

 

 

どんなに人を好きになろうとも、超えられない壁があって、それを守らなければならない。

それが、ルールである。

 

 

 

でも、時にはみ出してしまいたい…そんな欲望に駆られる。

 

これは、本能なんだと思う。

 

ただ、それを本能という簡単なモノにしてしまって良いのか?

 

 

この世の中は理性あってのモノ。

 

理性の中にほんの少しの本能が顔を出し、バランスをとっている。

 

その理性はどこから来るのかはわからないが

守りたいという、どこかで自己防衛機能が働くのかもしれない。

 

 

 

環境であったり

関係であったり

 

そこにある空間を大事にしたいという思いが

理性を高めてくれる。

 

その理性を信じ、日々努力している。

 

 

 

 

理性の中にあるちょっとした悪戯

 

その悪戯に少しだけ手を差し伸べて、心を落ち着かせている。

 

 

 

 

僕の心を落ち着かせている。

 

 

 

最近、ちょっと『想い』のバランスが悪くなっている。

この感覚は自分に余裕がない状態だ。

少しはまりすぎているといってもよい。

この感覚は好きではなくて、もうちょっといくと戻ってこれなくなる。

そして、この感覚が来てしまう理由もわからない。きっと捨てれない気持ちなのだろう。

 

 

だから、それを食い止めるために、他に意識を向けたり、気にしていないフリをする。

 

それでも、少し時間が空くと元の意識に戻ってしまう。

これが無意識感情の怖いところ。

 

 

 

 

 

 

 

 

どこともなくてやってきた、見えない鎖に繋がれて、僕の心は縛られてしまった。

 

取り外すことのできない鎖は君の空間の中に存在している。

 

宇宙の中にある地球のように、

 

 

見えない鎖で繋がれている。

 

 

 

 

でも、そのくらいが心落ち着かせられる状態なのだろう。 

 

 

 

 

渦の中で、手を差し伸べても、誰も助けてくれない。

 

 

 

 

 

そう僕は君の渦の中。 

 

 

フォークソングで奇跡を起こせ

昨日、久しぶりに昔の知り合いと飲んだ。

 

新宿西口で待ち合わせをした。

 

居酒屋さんに入った。

 

メニューは豊富ではなかった。

 

メインの焼き鳥もさほど種類がなく、仕方なく、盛り合わせを2セット頼んだ。

 

他の商品もちょっと頼んだけど。

 

 

飲んだ相手は映像関係の仕事をしている。

僕は、最近美術に興味がある。というより

 

『絵』そのものに対しての表現を楽しむというかその絵を制作した画家の思考が気になる。

 

そう、僕はその人が何をしているかというか、その人がどんな思考を持っているか?と、いう部分に興味がある。

 

 

僕は映像も人生も同じだと思う。

 

もちろん、映像には細かい演出を表現するために、カメラのアングルとかあったりすると思うがそんなのにはあまり興味はない。

 

 

 

僕の興味は物語の中で存在する『思考だ』

 

 

物語の中でどういう思考を持ってこれまでを生きて来たのかと、これからを生きるのか?

 

そういったモノを主観で捉えたドラマが物語として存在し、ノンフィクションの映像が流れる。

 

その人は言ってた、若い時やりたいことがあって、それをやりたいがために、捨てたモノがあったと。

 

 

その選択が良かったどうか?と、振り返って分析している。

 

もし、あの時、今を決断していなかったら、世界一周してなかったかなと。

 

ただ、あの時を捨てずにとっておいたとしたら、安定した生活を送れたと。

 

 

もはや、どっちの選択が正しいのかはわからない。

 

 

 

 

待ち合わせより早く着いた僕はフォークギターで弾いている路上ライブを聴いていた。

 

電話が鳴り、『今どこにおるん?』と、

 

僕は『フォークソングを弾いている人の前にいると』

 

 

 

 

僕は、その時『フォークソングは待ち合わせの目印にしか過ぎないのかな』と、思った。

 

 

 

ロックじゃ世界は変えれない。

 

でも、その歌は未来への道しるべになるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、それをきっかけに奇跡は起きる。

 

 

 

 

 

その奇跡がなんなのか?誰にもわからない物語なんだ。

 

 

変わらない本質

■習うより慣れろ

『感覚に落とし込め。』

 

 

何年前の話だよ。

 

 

 

 

『習うより慣れろ。』

あらたまって人から教えてもらうより、実際に経験を積んだり練習を重ねたりして、体で覚えていくほうが、しっかりと身につくという意味。
「習う」とは、知識や技術の教えを受けるということ。
本来の形は「習うより慣れよ」。

 

こういう言葉があるように、理屈を並べるより先に『動く』ことをすれば、勝手に身体が覚える。

 

確かに。『やる』ことでしか身体に染み付けられることはできなくて、その繰り返し、反復が

感覚に落とし込むための最大の手法だと思う。

 

 

ただ、怖いのは独自のやり方が、反復として身についた時、組織としてのバランスを崩していかないだろうか?

 

 

習う人が10人いて、10人違うやり方で学んだら、その10人はどんな慣れ方をするのだろう。

 

 

そして、その10人がポジションに入った時に、互いにどんな影響を与えるのか?

 

そして、互いにどういう思いを張り巡らせるのだろうか?

 

やりやすいのか?はたまたやりづらいのか?

 

■自分のやり方を押し付けるのではなく、『ここでは』こうしてる

 

業務を教える時には、『僕はこうしてる』と、いう教え方ではなく、

 

『◯◯ではこうしてる』と、いうように、その会社でのルールを理解させながら教える。

 

そう教えると、安心して覚えるコトが出来る。

 

なぜなら、独自性が浸透せずに、組織としてのやり方を覚えるコトが出来るので、

 

いちいち人に合わせる必要がなくなる。

 

■合わせるという時間の無駄

10人が10人やり方が違うと、個々が個々のやり方を感じ、合わせなければならない。

 

そうすると、何通りものやり方を教えなければならない。

 

そこにかかるには結構な労力がかかり時間がかかる。

 

 

■答えだけを一つにする

と、はいえどもやはり人間が作業することなので、どうしても個々のやり方は存在してしまう。

 

だから、ある程度過程は個々の自由にして、答えは一つにする。

 

どんな工程を踏もうが、最終的に同じところに到達できる。

 

そこだけのルールをしっかり守って業務を教えていけると安心して業務に携わるコトができる。

 

 

 

 

組織とは、様々な思考の塊。

思考と思考がぶつかって成り立つ。

この人の考え方はあまり合わない。

この人、生理的に受け付けない。

そういうこともある。

 

 

そういのも含めて、

 

 

 

 

 

習うより慣れろ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『何年前の話だよ』

 

世界の解放

目的を達成するための、精神維持。

 

すなわち、『モチベーション』

 

目的を達成するためには?

 

目的→目標

 

目標を立てクリアしなければならない。

そして、そこにはクリアするための努力が待っていて、

 

 

その努力を継続して行えるようなモチベーションが必要になる。

 

 

果たしてモチベーションは維持出来るのか?

 

なかなか簡単なことではない。

 

目標がなかなかクリア出来ないとやる気がなくなってしまうのが現実でもある。

 

 

目的をより明確にする。

 

まず、自分がどうしていきたいか?

その中で目標を立てる。

 

後はどれくらいのレベルを求めるのか?

 

求めるレベルによっては、努力の質や量が変わっていき、目的を達成する前に辞めてしまう恐れがある。

 

 

だから、継続して努力をして、目標をクリアし続ける継続力が必要。

 

 

それにはモチベーションを維持することが必要なる。モチベーションを維持するには?

 

 

『今ある現実から少し解放した世界を創りあげる』

 

 

自分が求めている期待 

 

他人が求めている期待

 

そういうのを背負っていると、目的を失ってしまうのです。

 

だから、どこかでその期待から解放してあげる。

 

いつもじゃない自分を見せて、いつもと違う思考や感覚を感じる。

 

そうすると、現実との向き合い方が変わる。

 

 

 

 

きっとね、『悪魔が天使になって、包み込んでくれる。魂を包み込んでくれる』

 

 

そんな気がしてならない。

業務を高いレベルで行い、提供する

『仕事とは?』

いう漠然とした議題があり、その議題の答えを見つけ出すのは難しい。

 

 そして仕事とは?という、仕事論を語るのは偉そうなことだと思われがちのように聞こえてしまう。

 

そんな考えを持ちながらも、

個人的な根本的本質は

 

 

『満足度を提供する』

 だと思う。

 

会社でいったら提供する相手は『顧客』

 

政治でいったら提供する相手は『国民』

 

 

その人達をどう満足させれるか?

これが『仕事』をする上で最重要な精神なんだと思う。

 

 

そして、何で満足を提供するのか?

ツールが必要になる。

 

そのツールを選択した上で、業務の極めが重要になる。

 

『極限を演出する』

 

仕事をするために、ツールを選び、そのツールの中で、極限を求める。

 

 

極限を求める、それは業務を高いレベルで行う。

 

そうすることで、高いレベルの満足度を与えることが出来る。

 

 

仕事とは?という偉そうな議題の中で、

細かく切り刻んで実行することは、業務の質を最大限にして、提供することなのだと思う。

 

 

 

 

『仕事論を語ることで自らの精神にプレッシャーを与える』

 

アレンジがオリジナリティと生み出す

0から1を生み出す。

 

これはなかなか難しい。

 

自分の言葉も誰かの名言から引用したりする。

 

まったくもって完全コピーではないが、そこにある言葉から自分の思考を引き出し、アレンジを加え表現をする。

 

『1から無限を生み出す』感覚で表現をする。

 

 言葉を生み出すのに、自らのオリジナリティで自分で言葉を生み出せるかといったら、それは微妙だ。

 

 

 

物質の成り立ちは成分、性質、要素を理解して生み出される。

ただ、僕らはそこにある物質に何の違和感も感じず利用する。

 

いちいち、成り立ちに目を向けたりはしない。

 

それが現代社会の特権だったりもする。

 

 

ただ、少し目を向けると、なぜその物質は作り出された? 

と、いう疑問が生み出される。

 

求めているモノを作ろうから、物質は作り上げられる。

 

でも、逆算して考えるのであるなら、この性質からこの物質が出来る。と、『発見』的な思考で作り上げられる。そうでなければ、物質を作り上げるためのヒントには気づけない。

 

 

プラスチックのコップがあるとしよう。

コップを求めてたきっかけは?水をどうやって飲むか?

 

そこからコップを編み出した。ただ、何を材料にする?

 

プラスチックの原料は石油。これを逆算で考えるのであるなら、石油にはコップを生み出す性質がある。

 

石油が何を生み出すのか?

欲しいという願望が何かを生み出すのか?

 

何かをきっかけに物質は生み出される。ヒントに気づくかどうか?

 

これだけの物質が存在する現代。

0から1を生み出すのは用意ではない。

 

言葉も同じで、数々の失敗と成功を繰り返し、生み出された。

 

そして失敗の分、言葉は生み出されてきた。

 

これ以上ないってくらいに失敗は繰り広げられてきた。

 

だから0から1を生み出すのは難しい。

1から無限という、アレンジしか生み出せない。

 

 

 

『ただね、そのアレンジはやがてオリジナリティになるのさ。 』

マイナス思考の無意識化が呼び起こす恐怖

プラス思考というのを継続して実行していると、全ての事柄がプラスに変換していきます。

ただ、これは洗脳です。

悪くはないのですが、一般的には通用しません。

局地に追いやられたときに、なんの解決策もないまま、自己啓発だけで乗り切ろうとします。要するに『自分に目を向けてみたら?』

と、根拠のない解決策というのが先行してしまい、気持ちだけで乗り切ろうとする精神論が先走る。

 

 

本来なら、どうしてそうなったのか?どうすればよいのか?と、分析をした結果、具体的な方法を生み出す。と、いうことをしなければならない。それが根本的問題解決策に繋がる。

ただ、それを続けていくと、物事の結果全てを他人の影響だと考え始まる。悪いのはなんだったのか?と、犯人探しのように誰かの影響によってと、『他人に目を向ける』ようになる。

これは、僕的には、マイナスに働きかけるといった動きになる。

これをすることで、自分だけが責任を持つ。ではなく、他人にもしっかりと責任を持ってもらう。と、いうようになる。

 

マイナス思考(マイナスアプローチ)を持つことで、物事を掘り下げて考えることができ、具体的な要因を探ることまでできるようになれる。

しかし、恐ろしいことにマイナス思考が根強いてしまっただけに、プラスで考えなければならないこと柄に対してもマイナスが反応してしまう。

継続してきたことだけに、習慣化され、無意識のうちに反応してしまうという恐ろしさが生じてしまう。

これが結局どこに繋がるかというと、『批判』に繋がってしまう。思考がそういう洗脳を受けてしまっているので表現もそうなる。

 

 

『誰かのせいにしたがるのだ』

 

思考自体が自動的にマイナスに向かってしまい、自分がどうなのか?の前に、他人がどうなのか?という思考が先に来てしまう。

 

上手くいかなかった結果に対しての矛先が他人優先になり、自分に目を向けることを疎かにしてしまう。

 

 

 

 

マイナス思考という悪魔が僕をどん底に引き込むのだ。