思考と感覚と戯れる

仕事という環境から生み出された、思考や感覚を表現したい。

理解者と助言者

自分にとって理解者と助言者はいるのか?

まず、始めに。

理解者とは?助言者とは?

ここを区別していきたい。

僕の中で捉えている理解者と助言者。

理解者とは、自分の言うことやる事に対して、受け入れてくれる人。

『なるほど』『確かに』と、答えたりと
同意をしてくれる。

助言者とは、自分の言うことやる事に指摘、注意、はたまた知らないことを教えてくれたり、これからチャレンジしようとすることにアドバイスをくれる人。

シュチュエーションや内容は様々ですが、
そう考えると助言者というのは

僕の周りにいる全ての人

そう考えると理解者というのは

いないのではないか?

どうして全ての人が助言者になるのか?
僕は他人との会話の一環で相手の意見を聞き出すために、

あらかじめ自分の予備知識がある中相手の意見を引きだすように働きをかける。
もちろん、全く知識がない状態でのスタートもある。
相手の今ある環境の中での得意としている(能力)を最大限に発揮出来るような
会話をすることで自分に吸収出来るものはないか?
はたまた、新しい思考を手に入れることは出来ないか?と模索している。
そうすると、周りにいる全ての人が助言者になりうる。


どうして理解者がいないのか?
相手がどういう思考の持ち主で、どういう行動を起こし、どういう結果を残したかで、その人の価値が決まり
僕を理解出来るか出来ないかは決定づけられる。
後は、その人が僕にとってどういう関係性かによる気もする。

家族、恋人、友達、夫婦、職場、仕事、sns、知り合い
どこの関係に値するかで、理解してくれる人も変わる。


と、いうよりか、理解というの難しくて

理解したふり

と、いうことが出来るから。

本当は『そういう考えは間違っているよ』と、思っていても
理解をすることが出来る。

これは助言と違い、知識がなくても、
隣でただ頷いていれば成立すると思っている。

だから、理解者というのは微妙だと思う。

正直、断定は出来ない。だから、『いないのかもしれない』と表現してしまう。

というより書きながら、あたまの中で整理がつかなくなる議題ということに

トイレの中で思い始めました。

そんなわけで自分なりの理解者と助言者を考えてみてはどうでしょう。