思考と感覚と戯れる

仕事という環境から生み出された、思考や感覚を表現したい。

破壊されたフィルム

理性とは本能を傷つけないためのフィルムだ。

何かの思いが弾けて、自分を表現してみるが
ズタズタにされる。

上手くいかないことの方が多い。


恋愛という、悪魔に洗脳される。

縛られて、
虜になる。


そうなると余裕がなくなり、相手を縛りつけてしまう。


僕は悪魔に魂を売ったんだ。


入り込み始めると、その先にあるのは嫉妬(気にしたりする感情)


今まで守っていた感情が全面的に前に出て、
君の虜になる。


そしてゴールのない恋愛。意味のない恋愛だけが突き進む。



そこで知れるのは『いっときの快感』



恋愛における感性は負と正の行き来、
そんな不安定な気持ちの中で生きている。


それがバーチャルの世界で起きる。

なんとも言えない。


そのバーチャルで起きた『悪魔との交渉』から逃れのはバーチャルでしかない。



バーチャルにすがる。
そこでもう一度悪魔から魂を奪い返す。



そして、感性を光らせる。惹からせる。



悪魔にのっとられないように、フィルムでしっかりと覆う。


『その薄っぺらな物質に何が出来る』


と、悪魔のささやきが聞こえる。

現代ピエロ

情報の多様化や技術の進化。それによって、覚えることが多くなった。嫌でもインプット。そうしなければ、この『現代』についていけない。

例えば、twitterの世界でもルールがあったりする。
そもそも「ツイートってなんやねん」と、いう話である。

そんな世界の中で踊らされている僕は、完全に『ピエロ』なのである。

言葉の認識から入り、その言葉の意味、役割、機能をキャッチするまでに、時間がかかる。


と、いうよりか、次々に湧き出て来る。まるで、神秘的なしずくを持つ、湧き水のように。ただ、その言葉の湧き水は神秘的ではない。


追いつかないのだろう。玉のりを試みても、色んな種類の玉があり、数も半端ない。そんな、状況の中にいる。それが『現代社会』。

その現代社会の中で、リテラシーを持ちながら、対応していくことが結構窮屈である。それでも、そういう世界を好んで挑む人もいるし、出来る人は出来るのだろう。


科学が進化して、とてつもない技術が存在しても、その技術を使いこなせる人はどのくらいいるのだろう。
人間の脳の使用率よりはるかに低いのではないか?携帯だってそうだ、役割が沢山あったとしても、それを100%使いこなしている人間はどのくらいいるのか?

目の前で起きている出来事は常に目まぐるしい。
まるで、僕のタイムラインのように流動的である。次々と流れ込む大量の渦が僕の心を埋め尽くす。時計の針は止まることなく進み続ける。

そして、僕はこの世界で踊り続ける。現代ピエロは嘲笑う。

仕掛けの中で感じ生きている

チームで戦う時には

戦術が必要になります。

その戦術を元に展開を作り上げていく。

その中には、仕掛けが必要で、どう仕掛けて相手を動かすのか?

この『仕掛け』がどのような戦況を生み出すのかが面白い。


スポーツによって、駆け引きに使われる技術や思考は違う。


僕はこういう裏で行われる行為、内部の事情であったり、どういうパターンが存在するのかが知りたかったりする。


例えば、

ポジションによる動き
フェイントの仕方
体力の使い方
選手交代


戦況下によって戦い方を選ぶ。
その時、どのような選択肢があるのかを知識として持つのが好きである。



そして、戦況を生み出し、展開へと導くための第1歩の『仕掛け』が好きである。




この仕掛け、大まかに二通りあると思う。

①わかりやすい仕掛け
②わかりづらい仕掛け




わかりやすいというのは、

目に見える動きであったり、自分の能力を活かした方法である。

わかりづらいというのは、目に見えない仕掛け、選手の精神の中で繰り広げているところ、目の動きや時間帯やらと少し外的要素を含んで影響させる仕掛けなどもある。


そのような、仕掛けを細かくみて、選手の肉体的状況であったり、精神的状況の変化がどうなっているのかを観るのが楽しいのだ。


そして、その仕掛けというのは、様々な分野で違う形として現れる。

数多くの仕掛け、色々な仕掛けの中で刺激を受け影響を与えられる。





そう、人生というゲームの中であらゆる仕掛けを感じ影響を受け、感動を得ている。

僕はつねに仕掛けられている。

悲しいみの向こう側には軌跡があるかもしれない

『人間が進化してそうなるのか、そもそも人間とはそういうモノだったのか、どちらにせよテレパシーがなくてよかったよ。言葉が存在して、伝えることがこんなにも大切で感動的なことだなんて。今はっきりわかったよ…』

 

 

 

僕らは言語を学び、それを活用して表現したり、伝えたりする。

 

 

言語は単なる音かもしれないが、間違いなく一つ一つの文字を繋ぎ合わせて、そこに意味を見出している。

 

 

 

単体では成立しないが、文字が集まり文章になり、人々に伝わり合う。

 

 

 

 

 

 

その言葉から、人類は感動し、新たなる奇跡を手に入れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

一つの悲しみがあって

一人の悔しさがあって

 

 

それらは、どうやっても受け入れなければならない。

 

 

 

沢山の積み重ねがあってイマがある。

 

 

 

 

そして、そのイマを感じるために積み重ねていく。

 

 

 

 

 

永遠に永遠に。

 

 

 

そこに感じている軌跡に触れていきたい。

 

 

 

 

『 いつしか言葉が言葉として存在しなくなる日まで、僕らはどこかで通じ合う』

 

 

 

 

渦の中

超えられない壁はある。

制御するために誓約を結んだ。

それは守らなければならないのだ。

 

 

 

どんなに人を好きになろうとも、超えられない壁があって、それを守らなければならない。

それが、ルールである。

 

 

 

でも、時にはみ出してしまいたい…そんな欲望に駆られる。

 

これは、本能なんだと思う。

 

ただ、それを本能という簡単なモノにしてしまって良いのか?

 

 

この世の中は理性あってのモノ。

 

理性の中にほんの少しの本能が顔を出し、バランスをとっている。

 

その理性はどこから来るのかはわからないが

守りたいという、どこかで自己防衛機能が働くのかもしれない。

 

 

 

環境であったり

関係であったり

 

そこにある空間を大事にしたいという思いが

理性を高めてくれる。

 

その理性を信じ、日々努力している。

 

 

 

 

理性の中にあるちょっとした悪戯

 

その悪戯に少しだけ手を差し伸べて、心を落ち着かせている。

 

 

 

 

僕の心を落ち着かせている。

 

 

 

最近、ちょっと『想い』のバランスが悪くなっている。

この感覚は自分に余裕がない状態だ。

少しはまりすぎているといってもよい。

この感覚は好きではなくて、もうちょっといくと戻ってこれなくなる。

そして、この感覚が来てしまう理由もわからない。きっと捨てれない気持ちなのだろう。

 

 

だから、それを食い止めるために、他に意識を向けたり、気にしていないフリをする。

 

それでも、少し時間が空くと元の意識に戻ってしまう。

これが無意識感情の怖いところ。

 

 

 

 

 

 

 

 

どこともなくてやってきた、見えない鎖に繋がれて、僕の心は縛られてしまった。

 

取り外すことのできない鎖は君の空間の中に存在している。

 

宇宙の中にある地球のように、

 

 

見えない鎖で繋がれている。

 

 

 

 

でも、そのくらいが心落ち着かせられる状態なのだろう。 

 

 

 

 

渦の中で、手を差し伸べても、誰も助けてくれない。

 

 

 

 

 

そう僕は君の渦の中。 

 

 

フォークソングで奇跡を起こせ

昨日、久しぶりに昔の知り合いと飲んだ。

 

新宿西口で待ち合わせをした。

 

居酒屋さんに入った。

 

メニューは豊富ではなかった。

 

メインの焼き鳥もさほど種類がなく、仕方なく、盛り合わせを2セット頼んだ。

 

他の商品もちょっと頼んだけど。

 

 

飲んだ相手は映像関係の仕事をしている。

僕は、最近美術に興味がある。というより

 

『絵』そのものに対しての表現を楽しむというかその絵を制作した画家の思考が気になる。

 

そう、僕はその人が何をしているかというか、その人がどんな思考を持っているか?と、いう部分に興味がある。

 

 

僕は映像も人生も同じだと思う。

 

もちろん、映像には細かい演出を表現するために、カメラのアングルとかあったりすると思うがそんなのにはあまり興味はない。

 

 

 

僕の興味は物語の中で存在する『思考だ』

 

 

物語の中でどういう思考を持ってこれまでを生きて来たのかと、これからを生きるのか?

 

そういったモノを主観で捉えたドラマが物語として存在し、ノンフィクションの映像が流れる。

 

その人は言ってた、若い時やりたいことがあって、それをやりたいがために、捨てたモノがあったと。

 

 

その選択が良かったどうか?と、振り返って分析している。

 

もし、あの時、今を決断していなかったら、世界一周してなかったかなと。

 

ただ、あの時を捨てずにとっておいたとしたら、安定した生活を送れたと。

 

 

もはや、どっちの選択が正しいのかはわからない。

 

 

 

 

待ち合わせより早く着いた僕はフォークギターで弾いている路上ライブを聴いていた。

 

電話が鳴り、『今どこにおるん?』と、

 

僕は『フォークソングを弾いている人の前にいると』

 

 

 

 

僕は、その時『フォークソングは待ち合わせの目印にしか過ぎないのかな』と、思った。

 

 

 

ロックじゃ世界は変えれない。

 

でも、その歌は未来への道しるべになるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、それをきっかけに奇跡は起きる。

 

 

 

 

 

その奇跡がなんなのか?誰にもわからない物語なんだ。

 

 

変わらない本質

■習うより慣れろ

『感覚に落とし込め。』

 

 

何年前の話だよ。

 

 

 

 

『習うより慣れろ。』

あらたまって人から教えてもらうより、実際に経験を積んだり練習を重ねたりして、体で覚えていくほうが、しっかりと身につくという意味。
「習う」とは、知識や技術の教えを受けるということ。
本来の形は「習うより慣れよ」。

 

こういう言葉があるように、理屈を並べるより先に『動く』ことをすれば、勝手に身体が覚える。

 

確かに。『やる』ことでしか身体に染み付けられることはできなくて、その繰り返し、反復が

感覚に落とし込むための最大の手法だと思う。

 

 

ただ、怖いのは独自のやり方が、反復として身についた時、組織としてのバランスを崩していかないだろうか?

 

 

習う人が10人いて、10人違うやり方で学んだら、その10人はどんな慣れ方をするのだろう。

 

 

そして、その10人がポジションに入った時に、互いにどんな影響を与えるのか?

 

そして、互いにどういう思いを張り巡らせるのだろうか?

 

やりやすいのか?はたまたやりづらいのか?

 

■自分のやり方を押し付けるのではなく、『ここでは』こうしてる

 

業務を教える時には、『僕はこうしてる』と、いう教え方ではなく、

 

『◯◯ではこうしてる』と、いうように、その会社でのルールを理解させながら教える。

 

そう教えると、安心して覚えるコトが出来る。

 

なぜなら、独自性が浸透せずに、組織としてのやり方を覚えるコトが出来るので、

 

いちいち人に合わせる必要がなくなる。

 

■合わせるという時間の無駄

10人が10人やり方が違うと、個々が個々のやり方を感じ、合わせなければならない。

 

そうすると、何通りものやり方を教えなければならない。

 

そこにかかるには結構な労力がかかり時間がかかる。

 

 

■答えだけを一つにする

と、はいえどもやはり人間が作業することなので、どうしても個々のやり方は存在してしまう。

 

だから、ある程度過程は個々の自由にして、答えは一つにする。

 

どんな工程を踏もうが、最終的に同じところに到達できる。

 

そこだけのルールをしっかり守って業務を教えていけると安心して業務に携わるコトができる。

 

 

 

 

組織とは、様々な思考の塊。

思考と思考がぶつかって成り立つ。

この人の考え方はあまり合わない。

この人、生理的に受け付けない。

そういうこともある。

 

 

そういのも含めて、

 

 

 

 

 

習うより慣れろ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『何年前の話だよ』